KYOTO UNESCO ASSOCIATION

にほんご教室


京都ユネスコ日本語教室 – 訪問感想紀(4月12日)

二 宮 宗 徳

先日、友人のNさんが開いている日本語教室を、はじめて訪ねてみた。京都駅から歩いて5分。都会の喧騒から一歩入ると、そこには異文化のゆるやかな時間が流れていた。

少し遅れて到着すると、Nさんの奥さんがやわらかな笑顔で迎えてくれた。扉を開けた瞬間、教室の中は、まるで小さな哲学カフェ。すでに熱のこもったやりとりが始まっていた。

「和方って何?」「漢方や蘭方は聞いたことあるけど、和方はちょっと…」「いえ、縄文時代の専門家に聞いたんです」と、アイルランド出身の女性が凛として答える。

なるほど、と思って少し調べてみたら、彼女の言っていることは正しかった。和方(わほう)――それは、日本古来の医術を指す言葉。中医学でも西洋医学でもない、日本の風土と歴史が育んできた身体観、そして癒しの知恵だという。Nさんは深々と頭を下げて、「私が学ばせてもらいました」と一言。その姿勢に、どこか、ことば以上の美しさを感じた。

この日のテーマは「お米」だった。でも、話はそこからどんどん枝葉を広げ、稲という植物の生態から、水田耕作の文化的特異性、日本人のお米への想い、さらには食料自給率や国際情勢の話まで。まるで稲の根が大地にひろがるように、対話が耕されていった。

学習者は6人。中国から4人、ベトナムから1人、そしてアイルランドから1人。それを囲むように、日本人のボランティアが7人。計13人のあたたかな円卓だった。

「日本語教室」と聞いて思い浮かべていたのは、文法の解説、発音チェック、例文の読み合わせ……そんな“教える場”だった。でも、ここはちがった。もっと根っこのところで、ことばが生まれていた。その印象をNさんに伝えると、彼はいつもの静かな声でこう言った。

「ここはね、日本語を学ぶ場所でありながら、“ことば”を超えて出会う場所なんです」

ああ、と思った。語学って、ただ言葉を覚えることじゃない。他者の世界をのぞきこみ、自分の当たり前が揺らぐ、そのときにこそ“学び”があるのかもしれない。

次にこの場を訪れるときは、ぜひ自分の言葉で、日本の文化や暮らしについて、ノンネイティブの皆さんと語り合ってみたい。そんな小さな決意を胸に、教室をあとにした。